那須 弘一 展 「ドイツへの旅立ち」 2006.7.1(Sat) - 8.11(Fri) 12:00〜19:00(8月9日を除く毎水曜休廊) オープニングパーティー/7.7(Fri) 18:00〜20:00 クロージングパーティー/ 8.11(Fri) 18:00〜20:00 今回は、那須が晩年ドイツで確立した作風のプレリュードとも言える大作を中心とした作品群を展示します。 関連記事 「ロハス気分」 http://www.lohaskibun.jp/kurashi/waza/art002.html |
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一階展示室 「蹟」シリーズ |
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二階展示室 ドライヤー教授の指導を受けた卒業作品他。人物は那須妙子夫人(左)とスピカ代表西嶋醇子。 |
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那須弘一展
「ドイツへの旅立ち」
開催のご案内 那須弘一は1947年埼玉県与野市に生まれた。存命であれば今年は59歳となる。 1972年、第16回シエル美術賞に「蹟」3部作を応募の後、当時師事していた山川輝夫の薦めもあり25才でドイツへ渡った。1973年、シュトゥットガルト国立美術アカデミーに入学許可され、ドライヤー教授に6年に亘り指導を受けた(※1)。 ドイツ構成主義の影響を受けた那須は、その後フランクフルトに移り、水彩で着色した和紙のマチエール上に切り込んだ直裁な斜線のコンポジションという独自の作風を開発、ドイツで画家としての地歩を築き、ドイツ及び日本で多数の個展・グループ展を行った。 1985年にはドイツ芸術家協会会員として受け入れられ、1987年にはボン芸術財団より製作奨励金を得るなどの経過を経て、ドイツ永住権を獲得し、すっかりドイツに永住する構えであったが、妙子夫人が千葉県東金市の城西国際大学にドイツ語の教職を得て、日本に定住することになったのを機に、1992年よりフランクフルトと牛久、東金に半年ずつ滞在・製作するという生活を9年続けた。2002年食道癌の告知を受けた後も、2003年東金にて他界するまで、命を注いだ真摯な製作を続けつつ生死を明らめていった。 最晩年の作品は悠々一人遊ぶ、良寛和尚のような優しさにあふれる作品である。彼岸即此岸の境地ではなかったかと思う(※2)。牛久の老母と東金の妙子夫人、そして一粒種の吉正を思いやる、愛にあふれた幸せな最晩年であったと想像する。愛よ永遠なれ。生きて 死すべきものよ、幸いあれ。 今回の展示は、25歳の那須がドイツに渡った1972年、シェル美術賞に応募した、秘めたエネルギーの発露とも言える精緻なコンポジションの大作を中心据えて展示する一方、 ドイツに渡ってからの那須作品の発展過程が見通せる最小限の作品やドイツでの展示会カタログ等も、別室に併せて展示、那須の画業の全体像が見通せる様になっている。那須がドイツ行きの出発点とした大作「蹟」シリーズ他、是非ご高覧頂きたくご案内する次第です。 |
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スピカアート 西嶋善昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※注 妙子夫人からお聞きした話であるが、ドライヤー教授が入試の応募作品の中から弘一のものに目をとめ、「この日本人は私が面倒をみる。技術は完璧だ、あとは私が指導したい」 と入学を即決してくれたという。 生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。ただ生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり。 ただ一大事因縁と究尽すべし。 道元禅師(修証義 総序) |
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那須弘一 略歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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